二者択一を壊す新たな選択肢「20代 会社員×社長」を生んだニューカルチャー“ONLY STORY”。その裏側に、前例のない挑戦と失敗を肯定する18個のクレドがあった

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インタビュイー

文教大学 国際学部 国際観光学科を卒業後、株式会社JR東日本びゅうツーリズム&セールス(旧:株式会社びゅうトラベルサービス)に入社。成田空港にて訪日業務に従事。1年で退職し、起業に失敗した後、自作の囲炉裏を自作のリヤカーで引いて歩く旅を始める。2018年に株式会社オンリーストーリーにジョインし、メディア編集長に就任。新規事業を担当した後、営業部広報・PRグループ責任者に。役割を広げる傍ら、2021年より株式会社ユニークを立ち上げ、U-29世代向けコミュニティメディア「U-29.com」や企業・地方自治体・教育現場向け事業を展開。

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ベンチャー企業で働きながら、新たな働き方を作り出している人物がいる。今年8月には3度目、累計約26億円となる資金調達実施も発表したオンリーストーリーの正社員として働きながら、U-29世代向けコミュニティメディア『U-29.com』の運営などを手がける会社・ユニークを共同創業し、代表取締役も務める山崎貴大氏だ。

新卒で入社した会社を1年で辞め、起業を試みたたものの失敗。自作のリヤカーで自作の囲炉裏を引いて「人々にとっての憩いの場」を提供する旅は、距離にして計1,000kmにも及んだ。そこから一念発起し、社会人インターンとしてオンリーストーリーに転職した。BtoB業界も、ベンチャーも未経験ながら、念願だったインタビューサイトの編集長を務めることに。圧倒的なコミット力で成果を挙げ、インターンから正社員となった。そのタイミングで、Webコンテンツの企画、編集を中心に副業を開始。その後、本業の傍らで手伝っていた事業に本格ジョインし、起業に至った。

振れ幅が大きく、まさに“ONLY STORY”を持つ彼がどのように同社にたどり着き、なぜ自ら会社を立ち上げた今もなお兼業し続けているのか。全てが未経験、右も左も分からない状況で道なき道を切り開き、スキルを拡張させてきたその歩みには、新しいベンチャーパーソンにとっての「学びのエッセンス」が詰まっていた。

  • TEXT BY MAAYA OCHIAI
  • PHOTO BY SHINICHIRO FUJITA
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リヤカーを引きながら将来を考えた?!
迷いの中でTwitterに見た希望

FastGrowの読者であれば、スタートアップやベンチャー企業、あるいはコンサルティングファームなどで自分に負荷をかけ、ビジネスパーソンとして成長していくことを志向している人が多いはずだ。一方で、多様な働き方が広がり、選択肢が増え続ける現代において、自分らしい生き方を実現したいと考えることは珍しくない。

そんな中で、やりたいことを実現すること、もしくはありたい状態を手に入れることは、ビジネスパーソンとしての成長とトレードオフである、あるいはビジネスパーソンとしての成長をしたのちに実現するものだと考える人もいるだろう。

だが、この両方を同時に取っていく働き方もあるのではないだろうか。その1つの解を示すのが山崎貴大氏だ。ベンチャー環境での成長と、兼業によるライフワークの実践および発信を行っている。そのキャリアの築き方は、一般的なビジネスパーソンとはかなり違う。今回は、山崎氏自身も想像していなかったそのキャリアの軌跡を追っていく。

今でこそ“ユニークな生き方”を自ら実践しているように見える山崎氏。だが数年前に遡ると、独立を目指して失敗し、貯金は底をつき、後悔と不安から心身に不調をきたしたこともあった。

キャリアが動き出した最初のきっかけは、観光学科を経て新卒で入社した旅行会社を退職したことだった。山崎氏は、いきなり路頭に迷うこととなる。

山崎独立したくて新卒で入った会社を1年で退職したのですが、たった2ヶ月で「これは到底無理だ、食べていけない」とわかってしまい……。見切り発車で会社を辞めたのだと後から気づき、「やってしまった」と思いました。

退職し、コミュニティに関する事業をつくろうと考えていたものの、マネタイズへのハードルは高かった。貯金は底をつき、一時は住んでいた部屋の家賃も払えなくなるほど。

山崎まさかこんなことになるとは……と落ち込んでいました。これからどうしようか、と後悔を覚えていた日々の記憶はまだ色濃いです。

そんな中でも、いろいろと助けてくださった方や、遊びに来て「調子どう?」なんて言ってくれる友だちもいて。めちゃくちゃ落ち込んで、「社会に戻れない」とすら思っていた僕はすごく救われました。

そんな時期、たまたまご縁あって気にかけてくださっていた方と関わる中で囲炉裏や火鉢のある場の魅力を知りました。火を囲む温かい空間にいると、自分自身や周りの心がほどけ、心が軽くなる気持ちになっていったのです。そうした場を自分が作る側になりたいなと思い、囲炉裏を積んだリヤカーを引いて歩き、出会った方々に場を提供し続けるというアイデアに行きつきました。

約3か月の隠居期間、ビジネスや慌ただしい日常から離れた山崎氏はそのとき、「『自分の気持ちや軸』を思い出した」と語る。世の中からの目や世間体、周囲の期待を取っ払った中に埋もれていた本音と本心に気づくことができたのだ。

そうして始まった囲炉裏リヤカーの旅。だが、本当にこれがやりたいことなのかは、まだわからなかった。ひとり歩く中で、様々な考えが浮かんでは消える。「なぜ、自分はこんなことをしているのか」「周りのように働かなくていいのか」「そもそも、働くとは何か」といった問いが自分自身の中に浮かんでは消え、に、一向に答えも見つからない。

そんな折、何気なく見ていたTwitterのタイムラインから、転機は訪れた。

山崎当時の自分ではとても受け止められないような問いばかりを考えてしまい、脳内が混乱していました。社会人歴を重ねていく同世代の姿も目に入り、焦る気持ちもありました。そのときにTwitterを見ていたら、僕のもどかしさをあたかも理解し、うまく言語化してくれるようなツイートを見かけました。業界内では著名な編集者・ライターの方のツイートでした。

僕はその言葉に救われ、こんな大人になりたい、こんな影響力を持てる人になりたいと思うようになっていました。それは就活のときには全く浮かばなかったくらいリアルなイメージ。「これがやりたい仕事を見つけるってことなのかな」と僕なりに思ったんです。

編集者やライターになり、自分が他の人にとっての救いになりたい。未経験から挑戦できる環境はないか、募集を探したがそう簡単には見つからなかった。そこで出会ったのがオンリーストーリーの求人だった。Facebookでシェアしていたのは、大学時代に知り合った友人。隠居時期も連絡をくれた人物で、当時からオンリーストーリーの取締役を務めていた。

「未経験から編集やライティングに携われる求人内容で、これしかないと思った」と振り返って話す山崎氏。すぐに連絡し、まずは社会人インターンとして働き始めることになった。

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未経験でベンチャー企業のメディア編集長に。
キーワードは「圧倒的行動量×密度」

オンリーストーリーは、『GOOD DESIGN(グッドデザイン賞)』や『日本サブスクリプションビジネス大賞2021』をはじめとしたアワードを受賞し、『働きがいのある会社」ランキングの日本版・アジア版』にもランクインするなど、注目を集め続けている。

山崎氏がそんな同社で働き始めたのは、まだ最初の資金調達や新卒・中途採用も行う以前の時期。最初に任されたのは編集長だった。25歳で初めてのベンチャー企業勤務、初めての職種、さらには人を束ねながらコンテンツを生み出していくことのプレッシャーは、並大抵のものではない。山崎氏は環境に順応するために、圧倒的な行動量と密度を追求した。

山崎最初はとにかく数です。3,000~4,000字の記事を月に40本ほど制作・管理し続けました。いきなり責任者になってしまったというのも良かったと思います。自分の後ろに誰かいると思うと、逃げたくなる気持ちが湧いてきてしまうじゃないですか。自分がこの弾を避けたら終わり、自分が最後の砦という責任感から、必死に手を動かしました。そうやって数をこなしていくうちにおかげで思考回路が磨かれて、考えなくても動けるようになりました。

目につく編集・ライティングセミナーに行きまくり、セミナー登壇者の本は必ず買って読み込み、仕事に使えることを翌日から実践しまくりましたね。他のことを考える暇なんてないくらい、朝起きて夜寝落ちするまで、インプットとアウトプットをとにかく繰り返しました。

原動力になったのは、やはり「いいものを作りたい」という気持ちですね。言葉で心を動かされ救われた経験があったからこそ、同様に相手の期待値を超えて驚きや喜びを生み出したいと思い、質にも妥協したくありませんでした。

あんなに愚直な努力は、今やれって言われてもできないかもしれません。本当に毎日、こめかみのあたりが痛かったです(笑)。

寝る時間以外、膨大なインプットとアウトプットをし続けた。その何かに追われるような姿勢は、周りのメンバーから見ると話しかけづらいとフィードバックを受けてしまうこともあったと反省まじりの苦笑いを浮かべる。「苦しかったけれど、その一方で、嬉しかったこともたくさんあった」と振り返る。

山崎僕はずっと人見知りで、他人が怖かったんです。子供の頃から常に周りが気になってしまい、今思えば自分が傷つかないように、傷つけられないように人の動きを先に見て、自分を守ろうという臆病な生き方をしていたんだと思います。

編集長になって以降も、最初は相手を喜ばせたいと思える余裕はなくて…。正直、相手に怒られたくない、がっかりされたくないという気持ちで臨んでいたと思います。そのためにあらゆる準備をするようにしていました。その会社のビジョン、事業内容、組織構造はもちろん、SNSアカウントや過去のインタビュー記事を調べ、SNSをされていない方やインタビュー記事がない方だったら、つながりを持っていそうな知り合いに連絡して情報を得ようとしたりもしました。

さらにその上で、「最初にこの質問をするとこう答えるだろうから、そうしたら僕はこの言葉をかけて、おそらく次はこういう展開になるな。万が一こういう答えになったときに、自分が詰まっちゃうとお互いの時間が無駄になってしまうから、2つのパターンを想定しておこう」みたいな感じで、これ以上ないところまで毎取材、あらゆるケースを見越して引き出しを用意しておいたんです。

当時は不安でしょうがなかったので、「それをやってからじゃないと寝られない」って、必死でした。

誰に教わるでもなくそういうことをしていくうちに「君の聞き方はすごくいいね。次も君が担当してくれないか」と言ってくれる方がどんどん増えて。いろいろな会社の社長が、僕が提案した企画で感動してくださること、価値を感じてくださることは大きなやりがいになりました。やがて、そこに自分の強みもあるのかもしれないと気づきました。それから少しずつ自信が持てるようになり、次第に相手をフラットに意識して仕事に臨めるようになりました。

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成果を出したことで拓けた、会社初の「兼業正社員ポジション」という道

圧倒的な努力が成果にもつながり、月に一度の全社会議で行われるメンバー投票による社内表彰を6ヶ月連続で受賞。当時の評価軸に沿って設けられたクレド賞・3Q(IQ/EQ/AQ)賞・社員賞など6種類の賞をすべて獲得し、インターン生を対象とした「MVP」も受賞。会社から正社員登用の打診を受けた。そこで山崎氏は社長(CEO・平野哲也氏)に対し、ある提案をしたという。それは、「兼業正社員」という選択だった。

山崎自分の起業失敗経験や旅人期間の経験から、今後はよりグラデーションのある働き方を実験したいと構想していたので、まずは正社員をしながら平日に副業もできる働き方がしたいと考えました。ただ、むやみやたらに見切り発車すると大失敗することは、今までの経験で身をもって感じていたので、図々しいけれども、正社員を軸足にして、そこからいろいろな働き方を探しに行ける環境がベストだと思い、社長の平野に伝えました。

「受け入れてもらえるかどうか、今思えばめちゃくちゃ緊張して話しましたね。さすがにわがまますぎるかなと…」と振り返る山崎氏。編集長として未経験から月間約40本、年間500本ほどの記事制作・管理を続け、当時立ち上げを担当した新規事業のクライアントからもまた支持を受け、社内のMVPを受賞した山崎氏は、オンリーストーリーとしてもフルコミットすることを期待されていたのは分かっていた。当時、会社内はプロダクトをバージョンアップさせている最中でもあった。その過程については、過去の記事でも語られている。

ところが、提案を聞いた平野氏からは、門前払いどころか意外な答えが返ってきた。「うちのクレドに当てはめて考えてみようか」。

当時からオンリーストーリーには全18個のクレドがある。創業メンバーのみだった組織体制から山崎氏をはじめとするインターンメンバーや新卒メンバーがジョインし始めた頃に、社の行動指針を言語化したものだ。

その中のひとつ、「成果からの要求」というクレドは、成果を出さずに要求する人物より、成果を出して獲得した信用・信頼をもとに主張や提案をする人物を推奨、評価するというもの。山崎氏が残してきた「成果」は、このクレドに当てはめれば「要求できるだけの成果」に値するものだった。

オンリーストーリーの18項目のクレド(同社提供)

だが、副業を始める社員は将来的に副業1本で独立したり、外で起業したりする流れが見込まれる。特に成長途上のベンチャー企業にとって、優秀な人材の流出は痛手となる可能性が高いのも事実だ。さらに、オンリーストーリー社にとって、時短正社員という提案は前代未聞のこと。社長の平野氏は前向きだったが、戸惑いがあるようにも見えたという。

山崎社長には、「会社としては、将来出ていく可能性があるメンバーに時間を使うことは本当に正しいのかわからない」とストレートに言われました。その上で、「今後もオンリーストーリーとしての目標を追い続けながら、両立した働き方を示してほしい。

逆にそれができなかったら、しばらくこういう働き方を他の社員に許可できないと思う」と。僕ができなければ他の人の道を潰してしまう。それは嫌だなと思って、頑張ろうと思いましたね。うわべの話ではなく、お互いに本音で話せたことで、僕も気持ちが固まりました。

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「悩むな、考えろ」。
冷静に向き合い、広報初の目標「年73本のプレスリリース」をクリア

週4日勤務する兼業正社員。山崎氏の新たな挑戦が始まった。編集長として未経験職種を自分のものにするための日々は乗り越えたが、ここからの道のりも平坦とは程遠かった。

編集長と兼務して立ち上げ責任者を担当していた法人向けブランドブック制作事業は、主幹事業に注力するため自らクローズすることに。そんな紆余曲折を経て、会社初の広報担当に着任する。ここで次のハードシングスが訪れた。それは、プレスリリースを月に約6本打つことだった。

山崎広報についてわかる人間が、当時はまだ社内にいませんでした。そこで、「ゆくゆくは広報という部署が必要になってくる。今からやってみたらどうか」と社長に言われて、立ち上げに取り組みました。

一般的な企業が打つプレスリリース数の平均は月2〜3本、年間20本〜30本のペースが多いが、社長の平野氏からオーダーされたのは、その倍以上だ。平野氏が手本とする企業には、広報に積極的な企業も多かったようだ。また、社長自身の起業・経営経験から、立ち上げ期はスピードがものを言うという助言もあったという。

一般的な業界セオリーから大きく外れる提案に、山崎氏は最初頭を抱えた。だが、「社長の言う事なら何かあるはず。まずはやってみよう」と、ここでも愚直な行動を続けた。

社内のネタ探しから企画、発信資料の制作などを徹底的に実施。当時はいわゆる「ひとり広報」でリソースも限られる中、メディアリレーション、SNS運用、note運用、社内報、アワード・コンテスト対応、取材対応といった様々な業務にも、メディア人脈ゼロ、経験ゼロの状態から取り組んだ。

だが、編集長を始めたときよりも成果や手ごたえが得にくいことを感じていたという。

山崎会社の外でセミナーを受けてみたり、ニュースを見始めたり、クライアントが読みそうな本を読み漁ってその気持ちになろうとしてみたり、編集者になった頃のように行動していましたが、思うように手ごたえがなかったんです。

あとから気づいたことですが、社外に情報収集に出たり本を読みまくったりすることも大事ですが、当時の僕はまだまだ自社とその事業領域などについて知識も経験も足りなくて。実は自分の足元にに詳しくなることが最初に踏み出すべき一歩だったんですよね。

そうした内省と気づき、短期間のうちに成長機会を自ら見つけ出す姿勢は、自社の社長や世の経営者との接点を通じて、「もし自分が経営者だったら」という視座が育っていったことが大きいと話す山崎氏。自分たちのリソースで提供できる、他社には真似できない価値とは何か──。突き詰めた結果、まだ世に新しい自社ビジネスモデルの特徴や蓄積され続ける独自ノウハウ、経営者と経営者の間に眠る知恵、といったものには容易に値段を付け難いほどの価値があると考えた。

日々アップデートされる社内の話題にも常に目を配り、自分が信じた自社の価値に紐づく情報をリリースに書き下ろし続けた。結果、目標だった73本を達成することができ、広報機能の立ち上げも実現した(詳しくは、山崎氏のnoteを参照されたい)。翌年も、その勢いを上回る成果を残し続け、今月3度目の資金調達実施発表の際にも代表とともにその裏側を手がけた。

「成果が出始める前は、内心どこかで誰かの助けや他人への行動に期待をしているところがあった。実際には、そんなものはあったらラッキーくらいで考えなければいけなかった。まずは、自らできること全てに力を尽くそう、あとはそれから考えようと気持ちを切り替えることができたところから流れが変わった」と山崎氏は言う。

実際に、コツコツと続けていくことで成果が上がり始めた。山崎氏の思考の変化の背景にあるのがオンリーストーリーのクレドのひとつ「悩むな、考えろ」である。

悩むというのは、目的地や解決策を具体化せずにぐるぐると思考を巡らしている、それ自体が目的化している状態。考えるというのは、きちんと課題と向き合い解決策を探している状態だと山崎氏は捉える。このクレドを受けて、「今までは悩んでいただけだったんだなと気付かされた」と苦々しく語る。

山崎冷静に事態を整理し、作用している要素を分解し、最も成果に近いと思える一手、今できる最善の一手を考え、暫定の答えを出す。そして、まずやってみる。そうすると悩む時間が圧倒的に減りました。そうして考えることで、いろいろな場面を突破してこられました。

途中、失敗や回り道をしてしまったこともありますが、その度に「失敗しても、3倍学べばいい」という社長の言葉があり、前を向き続けられました。

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「独りよりも、協力・共創」。
オンリーストーリー、兼業で感じた、働く価値観の変化

山崎氏のエピソードには、独立独歩を感じさせるものが多い。1人で起業しようとしたり、1人で毎日リヤカーを引いて旅していたり、自ら負荷をかけて大量の学びを取りに行ったり。だが、そんな山崎氏が、オンリーストーリー入社以降、急激に他人と一緒にビジョン実現を目指すことにシフトしている。

だが、そう簡単に自分を変えることができれば苦労しない。どのような経緯から、他者との協働を当たり前にできるようになったのだろうか。

山崎編集長や広報に挑戦したり、その間に起業・経営に挑戦したりする中で、さすがに1人でやるのは限界だということにぶつかったんです。最初は、疲れて疲れきった末に行きついた、“諦め”に近いものでした。

そんな時、ふと「そもそもなぜ、こんなに1人で頑張っているんだろう」と自分に対して疑問が浮かびました。よく考えると、人に頼るのが怖いから1人でやった方がいいと逃げていたのだと気づきました。学生時代にプロジェクトメンバーから無視されるほどリーダーとして嫌われたことや新卒時代に職場でうまく総合職正社員として振る舞えなかったことなどがいつも頭をよぎるんです。

当時は過去の失敗感覚から抜け出すことができず、どうやって協力を仰げばいいのかわからない心境でした。でも、このままでは何も状況は改善しない。だから、まずは頼ること自体に慣れていこうと決め、挑戦しました。

まずは自分には何ができて、周りには何をお願いしたらいいかというところから考えるようになりました。

周りとの目的をすり合わせ、関わり方を考えることに時間を費やすようになった。「自分ではなかなかできないこともメンバーに実現してもらえるようになり、人の力を借りることでこんなに多くのことができるんだと感じた」と、協力する喜びを覚えていったのだ。

山崎リヤカーを引くのをやめた直後は、まだ無意識に“自分1人くらいが暮らせればいい”という感覚でした。月に3万円あれば死にはしない、という気持ちでいました。今思えば、自分のことしか考えていない。それから“自分以外の誰かと何かを成し遂げてみたい”“より多くの何かに影響を与えてみたい”という感覚に変わってきました。ずっと「ひとりの方が早いし、楽だし、傷つかない」、と勝手に思い込んでいたんですが、それは「逃げ」であり、ここで変わらなければ…と気づいたんです。

メンバーの活躍を支援し、能力を引き出すことで、予想外の成果が生まれ、メンバー自身もイキイキとした顔をする。すると、刺激を受けて「自分も負けないぞ」という気持ちになるし、メンバーが働いてる間に自分の仕事に集中でき、結果的には一人で取り組むよりもより大きな総合成果を生み出せる。今は、そうやって働くことが楽しいです。

人と協力すること、周りに頼ることができずにパンクしかけた経験から学び、周りとの連携が上手く回るようになってから、成果も現れた。

広報に着手する前の年と立ち上げ初年度を比較すると、露出獲得数は2.5〜3倍。SNSアカウントのフォロワーは4桁まで成長。広報主導で応募し、受賞したアワードもある。インバウンドで取材の問い合わせも増えた。社内では、リモート下の情報共有、クレド浸透、熱量波及等の目的で行う社内報が好評だという。

未経験にもかかわらず、オンリーストーリーでなぜここまで早く成果を挙げられたのだろうか。「同時並行で挑戦していた起業、経営の過程で得た社内外での人脈と経験も大きな助けになりました」と山崎氏は語る。オンリーストーリーだけでなく、副業や後述する会社の経営を通して、学びを転用・実践する回数は格段に増えた。そのサイクルが高速に循環し始めた時に、「1年で2~3年分の変化を起こせるかもしれない」という実感が湧いたという。

オンリーストーリーにジョインしてからたったの4年半で、ビジネスパーソンとして圧倒的な変化量を生み出せたことは、そうした機会を掴み取った山崎氏の行動量に裏付けられているのだ。

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自分の実体験を持って、“ONLY STORY”を叶えていける人材・会社づくりを

山崎氏のキャリアは、多様だ。オンリーストーリーの正社員としてBtoB業界で積み上げるキャリアに対し、創業者・代表としてのキャリアも同時に進んでいく。

山崎当初、のちに共同創業する人との間で、法人化という選択肢が浮かびました。僕は正社員で働いている身で、それは無理だろうと考えていたのですが、世の中にはまだまだいろんな働き方を実践している方がいることを知り、可能性がみえてきたんです。そこで(オンリーストーリーの)社長にも、「起業を考えている」と事前に相談し、改めて許可をいただき、今に至ります。自分の会社は、今年2期目に入りました。

創業したユニークという会社は、29歳以下のユニークな生き方、働き方をしている人たちを取材し、その姿を発信していくWEBメディア運営を前身の活動としている。29歳以下の若い世代が新しい働き方や多様な生き方を知り、よりユニークに生き、働くためのヒントやアイデア、勇気を与えられる存在を目指す。取材してきた数は、2018年から数えて800件ほどになる。また、WEBメディア立ち上げ当初から読者コミュニティという位置付けでFacebookグループも運営。現在、Facebookグループの参加メンバー数は4000人にのぼる。この2つを総称して「コミュニティメディア事業」と呼ぶ。

次第に「若い世代の考えていることやインサイトが知りたい」という企業、地域からの声も集まるようになってきた。そこで企業向けの若い世代を対象とした広報・マーケティング・商品開発などの支援も実施している。また、「子供たちにより良い教育を届けたい」という声を受け、中学校や大学で講義・ワークショップも行ってきた。

ユニークでの今後について、山崎氏はこのように抱負を語る。

山崎29歳以下の若者のために行っているようで、実はそうではない。若者がよりユニークに生き、働くようになるということは、そこから新しいアイデア、ヒントが世に生まれていくようにもなることだと考えています。その結果、若者を抱える地域、企業、ひいては社会が抱える課題や不安に対して、新たな解決策や話題が生まれる可能性が高まる。そんな好循環を、29歳以下の世代から創っていこうじゃないか、と呼びかけたい。

そのためには、まずは個人が自身の持つアイデアやテーマに気づき、それぞれに新しい一歩を踏み出し続けることが大事なんです。とはいえ、気づけない、挑戦しづらいというのが現実。それに対し、私たちが育てているコミュニティメディアは、ある時は刺激やヒントを与え、またある時は挑戦しようとする人の勇気や安心を提供できる機能でありたいし、若者以外のステークホルダーとの出会い・共創の末に新たな価値が生まれるような場にもしていきたい。

また、新卒採用、中途採用を始める前の時代を知り、会社づくりに欠かせないミドルマネージャーメンバーに就任したオンリーストーリーにおいても、意気込みは溢れる。

山崎オンリーストーリーの広報・PR活動を広げ続けた先に、自社だけではなく、増え続けている顧客やメンバーの家族などをはじめとする関係者もハッピーになり、社会においてより明るい希望や期待感を広げるために尽力したい。まだまだ未熟ですが、そういう役割を果たせる人物を目指していきます。

また、僕がこれまでやってこられたのは、オンリーストーリーのクレドがあったからです。今思えば、僕にとってお守りのようなものだったのかもしれません。クレドが目指す人物像として定義する“つよ・いい人物”に近づくことができ、そういう人物こそ挑戦できる機会や夢を実現できるチャンスに恵まれるのだと思います。その先にこそ、自分らしいキャリア=“ONLY STORY”があるのだとも言えるかもしれません。

会社の成長に遅れを取らないように成長を続けながら、自分の実体験を持って“ONLY STORY”を叶えていける人材を育てていくことにも挑戦したいと思います。「属性の尊重とレベルの向上」というクレドがまたあるんですが、どんな人にも個性を活かした社会人・ビジネスパーソンとしての成長の形があるのではないかと考えています。

山崎氏にとってオンリーストーリーのクレドこそ、今のキャリアを築いた原動力であり、指針である。それが自ら会社を立ち上げた今でもオンリーストーリーで働き続け、ライフワークとの両立を探究し続ける理由でもあるのだ。

最後に、個人としての今後についても尋ねた。

山崎僕自身、あらゆる場面で自分に合ったコミュニティや環境と出会えたおかげでここまでやってこれました。落ち込んだ自分を受け入れてくれた環境、未熟な自分を鍛えてくれた環境、出会いによって新たな知識や人脈を得られた環境など。とはいえ、社会全体としては場の多様性はまだまだ足りないと思っています。もっといろいろな人にとっての居場所が増えたらいい。それができる実力や必要なつながりを築いていきたいです。

最終的には、少し大袈裟な表現ではありますが、多くの方から拍手をいただけるような経験をしたい。大学時代の和太鼓部。和やかなムードの地域のお祭りで演奏した時も、有名なアーティストも舞台に立つことで知られる東京国際フォーラムで演奏した時も、見る人は拍手してくれたり、泣いてくれたりしました。日々の苦しい練習や地道な積み重ねが報われる気持ちになったのと同時に、自信や誇らしさを感じました。あんな風に人の心を動かせる経験をまたしたいですし、そんな人物になれるよう、今後も力を尽くしたいと思います。

もともとは悩みがちで繊細な性格の山崎氏は、はじめはベンチャー環境が得意ではなかったという。だが、会社と自身、関わる人のONLY STORYを重ねていくうちに、クレドという指針も得て、環境を活かすことができるようになった。その結果、会社の中には新しい広報・PRという戦力が生まれ、個人としても新たなキャリアの形を生み出した。

同社が世の中の個人・法人に向けて掲げる「1人1人のONLY STORYを実現する」という世界観には、多様な人と会社の可能性を最大限に引き出す力があるのかもしれない。

こちらの記事は2022年08月23日に公開しており、
記載されている情報が現在と異なる場合がございます。

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執筆

落合 真彩

写真

藤田 慎一郎

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